株式会社NADJA 代表取締役社長
ダンサーからWEBマーケターへ。通ずる道。
ダンサー、そしてWEBマーケターという異色の経歴を歩む濱口雄太さん。かけ離れた世界にいながらもジブンというスパイスでまわりを幸せにする共通の価値観を持っている。アートとビジネス、それぞれの世界を行き来する濱口さんの目は常に少年のような輝きを放つ。そのルーツを探ってみた。
取材日:2020年4月26日
聞き手:大竹一平(MtipCreative㈱代表)
文:三井所健太郎(Honmono協会代表)
ダンサーとしての挑戦
大竹
濱口さんってホント不思議だよね
濱口
冒頭から(笑)
大竹
アートからビジネスまで経験していて、国内外を行き来してて。
一見バラバラにも見えるんだけど、なんかそこに共通点がありそうな。
濱口
あぁーなるほど。
大竹
今回はそういったところを引き出せればいいなっと思ってる。
濱口
有り難うございます。
大竹
まず、濱口さんのルーツでもあるダンスなんだけど
始めたきっかけってなんだったの?
濱口
そうですね。
純粋にテレビ見て、ダンスかっこいいなと。
新しいジブンに出会えるなと。
やるだけやってみようと。
大竹
ポジティブな感じだ。
濱口
いえ、実はその真逆で。。
中学の頃、生きてるのが辛くて。
ダンスに没頭することでジブンを探す、
みたいな感じでしたね。
高校も行かなくなりました。
大竹
学校は辞めたの?
濱口
高2で辞めたんですけど。
通信制の学校に行って卒業はしました。
その後、大阪に引っ越してダンスをやるために一人暮らしを始めたんです。
ちょうど18歳。
何ができるんだろうと考えた時に、
バイトも向いてないのでダンスのレッスンを始めました。
大竹
なるほど。
濱口
そして19歳になった時に
ユニバーサルスタジオにダンサーとして入りました。
日本って月給もらいながらダンスできるところ少ないんです。
大竹
確かに。
普通はなかなか食っていけないよね。
すごいこと。
濱口
いないすね。
当時は私もその価値をわかってなかったです(笑)
大竹
そこから本格的に。
USJではどんなダンスをしていたの?
濱口
USJのダンサーはバレエとか宝塚系の人が多いんです。
その中で私はヒップホップ出身。
しかも一番若かったんです。
大竹
異端児扱い
濱口
はい。
だからネットで叩かれてるのを見て凹んだこともありました。
あいつだけ動きが違うぞ、的な。
大竹
そういうこともあるんだ。
濱口
で、ディレクターに会ったときになんで僕を採用したのか聞いたんです。
大竹
ほお。
濱口
そしたら
「濱口くんが唯一、面接の時に、こっちが『もういい』っていうまでダンスをやり続けた」と。
それがよかったのかも。
大竹
認めてくれる人がいてよかった。
濱口
はい。
しかも、バレエの世界に出会える経験にもなりました。
大竹
自分と周りのダンサーとの力量は自分ではどう感じてたの?
濱口
もう技術的には自分は最低でしたね。
ただMCとかそういう付加価値はありましたけど(笑)
大竹
濱口さんっぽい(笑)
USJにはどのぐらいいたの?
濱口
2年ぐらいですね。
そのあとジャズダンスを学びたいと思い
ちょっとだけ東京にいました。
大竹
USJは辞めて?
濱口
はい。なので日銭を稼ぐため、
歌舞伎町のショーパブで踊ってました。
大竹
表舞台から夜の世界へ
濱口
です。
ただ、その原点は「踊りが上手くなりたい」という一心でした。
そのためには踊り続けるしかない。
だからお金を貰いながら踊る、というを選択をしました。
大竹
関西から東京に出てきて、どうだった?
濱口
東京には本当はジャズダンスを学びに来たのですが、いろんなの出会いの結果、
前衛芸術集団と一緒になることになってしまったんです。
大竹
前衛芸術?
濱口
新宿の西口に寝そべっているような変な人たちです。
カラダを使って即興で感情を表現するような。
大竹
面白い。
そこから海外へ?
濱口
そうですね。
前衛芸術というスタイルは、今のジブンを常にダンスで表現するんですね。
そうなると、ダンスと実生活の境目がなくなってきて。
24時間踊り続けるような生活になってしまって。
そこから自分が分からなくなり、ヨーロッパへ。
ジブンを探すヨーロッパの人生
大竹
人生そのものが即興ダンスになっちゃた。
濱口
はい。
なかなか言葉にはできないのですが
一人になりたい、みたいな感情もありましたね。
大竹
行き先はなんでヨーロッパにしたの?
ダンスだとアメリカに行く人が多そうなイメージだけど。
濱口
アメリカも考えたけど、アメリカは日本人が多かったんですね。
なので日本人のいなさそうなヨーロッパを選びました。
大竹
そこから転々と?
濱口
はい。
ユーレイルパス、というヨーロッパの列車が乗り放題になるパスがあるんですけど、
それを使ってアムステルダムからローマまで行ってみようと。
大竹
拠点はあったの?
濱口
いえ。流浪です。
ただ1年目はスイスにいました。
大竹
スイス?
濱口
はい。
ヨーロッパではユーレイルで駅を降りては、道すがら踊ってたんですね。
そしてストリートパフォーマンスでお金をもらっていました。
その際にスイスでのオーディションの情報が入って。
行ったら受かって。
大竹
すごい、行動力。
濱口
そこはジュニアカンパニーという学校とバレエ団の中間みたいなところで
家賃を補助してもらいながら暮らしてました
大竹
そうなんだ。出会いの連続だね。
でもその時、濱口さん自身はまだジブンを見失ってるんだよね。
その中で、何を表現してたの?
濱口
見失ったことを表現してました(笑)
大竹
なるほど、それもアリなのか(笑)
濱口
今を表現することもコンテンポラリーダンスなので。
大竹
ダンスしながら自分が戻る感じはあったの?
濱口
ないですね、ずっと探してました。
満たされないんですよね。こういうことをやってると。
ただそれを表現することがアートでもあるので。
大竹
なるほどね。
でもなんか不思議だよね。
空っぽなのにどんどん前に進んでる感じ。
濱口
ですね。
自分からアプローチしていたからだと思っています。
言葉も全然できなかったのですが、
ダンスを通して表現をし、ご縁や機会を得ることはできていました。
大竹
確かに。
濱口
スイスを出たあとは、
コンテンポラリー寄りのポーランドのカンパニーに入団しました。
それが2003年ごろ。
雑誌でオーディションがあるのを知って、それに受かりました。
じゃあいくねと。
大竹
順調だ。
濱口
はい。
でも実はポーランドにも1年ぐらいいたんですが、
その時に怪我をしたんです。
ポーランドは当時医療が発達してなくて、
そのときにヘルニアの処置をしてくれなかった。
怪我、そして新たな発見
大竹
そうだったんだ。
濱口
シアターに救急車呼んで筋肉注射して、、。
その時に紹介してもらった医者がまたとんでもなくて。。
大竹
言葉もわからないし余計不安になるよね。
濱口
これは厳しいなと。保険もないし。
それで日本に一旦帰りました。
大竹
なるほど。
濱口
そこからまたヨーロッパに戻りました。
そこでようやくドイツです。
なぜなら医療が発達してるから。
大竹
そういう経緯でドイツなんだ。
濱口
そこでオーディションに合格し、
バイエルンの州立劇場で3年間踊りました
大竹
その時は何歳?
濱口
26ですね。
大竹
いい年になってきたね。
濱口
はい。ドイツは長くて11年いましたね。
大竹
ヨーロッパでは一番長かったんだね。
それでやっぱり気になるんだけど、そのダンサーとしての生活が、今の仕事とはどう繋がっていくの?
濱口
怪我をしたのがきっかけで
腰に負担がかからない踊り方を常に模索してました。
大竹
負担のかからない踊り方?
濱口
重力と空間に対してカラダを最適化する、みたいなイメージですね。
力を使わなくても遠心力や重量や操作性を使って踊るように心がけました。
大竹
面白い。
濱口
人間って脳が伝達をして体を無意識に動かしてますが、
実はその動きって実際に脳がイメージする動きと異なってるんですね。
大竹
確かに。言われてみればそうかも。
濱口
一流のアスリートは自分の脳が指示したイメージと実際の動きのズレをチェックします。
そして、その差を修正するトレーニングをしています。
それは体を最適化する上で必要な作業なんですね。
大竹
武井壮も言ってた気がする。
イチローなんかもそうだよね。
濱口
そうです。
だから自分の体の癖を知って、脳がイメージする最適な答えを導き出す。
そしてそれを体を使って実現していく。
で、いまと考えると
その体の最適化って「自動化」なんですよね。
大竹
なるほど!
なんだか、だんだん今のマーケター濱口さんに繋がってきた!
濱口
業種的には全く異なりますけど、
僕の中ではすごい発見でした。
更に言うと僕の役割は「スパイス」だったんですね。
大竹
スパイス?
濱口
はい。
無意識にスパイスとして「意識」を入れる、と言うことです。
無機質な自動化ではなく
僕なりの心を込めた自動化を目指すようになったんです。
ダンスをプロデュースする立場へ
大竹
なんかすごく不思議な話な気がするけど、そう言われるとなるほどって感じもする。
ただ当時はそれが今の自分に繋がるとは思わなかったでしょ?
濱口
その時は思ってなかったですね。
そのあとフリーランスになって、
ヨーロッパの国々を踊り3年。
そのあと芸術監督になりました
大竹
マネジメントする側になったんだ。
濱口
はい。
「自分のメソッドってなんだろう?」
ここを追求していこうと。
その時に“フォーカスメソッド”というのをつくりました。
大竹
フォーカスメソッド?
濱口
人が見ているところとか見たいとこと、
実際に対象物が動いている関節は別のところにありますよって言う…。
大竹
…よくわかなんけど、なんかそれだけで飯食えそう(笑)
だけどそれってなかなか理解されないでしょ?
濱口
確かに説明に時間はかかりますね。
ただ実際にカラダを動かしながらやると、
みなさんすごく理解してくれます。
大竹
それ面白い。
確かにそういうのってダンスやってないと行きつかないよね。
濱口
ですね。そしてフォーカスメソッドは
舞台監督として、ダンスグループとして、
こういうメソッドを使ってますというブランディングでもありました。
ディレクターの役割に近いですね。
大竹
なるほど。
濱口
みんながダンスしたものを自分で編集して、見たい人に発信する。
大竹
自分が演者をしたい、と言う気持ちはなかったの?
濱口
演者と舞台監督の仕事や思いは全く違うんです。
自分で両方やると食い違いが起きてくる。
それはしたくありませんでした。
大竹
確かに。
濱口
おかげで、受け入れる側に専念することで、
自分のディレクションのキャパは本当に大きくなっていきました。
大竹
やってることは全然違うけど、
集客とかマーケティングには近づいてきたね。
濱口
はい。
今までは自身がパフォーマーとしてアートすることが全て、と思っていました。
しかし怪我をきっかけに、分析したり、そこからメソッドを見つけたり、周りに活かし結果を出すことが自分の強みだと気づくことが出来ました。
大竹
なるほど。
濱口
そしてアートをやりながらもメソッドの要素を取り入れたことで、
自分がスパイスとなる「心のこもった自動化」を、ビジネスの世界で生かせないかと考えるようになりました。
ダンスとビジネスに通ずる共通点
大竹
両方の経験が生きてるよね。
で、今はマーケターという濱口さんがいるんだけど、
そこまでの導線も気になるな。
濱口
その後、2016年の初旬にUSJで振り付けの仕事をいただきました。
そこで久しぶりにUSJに行ったら人で溢れかえってたんです。
大竹
USJは2004年に一度、実質的な経営破綻をしてるから。確かに転換点があったよね。
濱口
調べると
USJに伝説のマーケターがいてV字回復したことを知りました。
そこでマーケティングに本格的に興味を持ったことがきっかけです。
大竹
それがきっかけで勉強を始めた?
濱口
はい。
そこからMBA。そしてBBT(ビジネス・ブレークスルー大学大学院)の大前研一さんの大学院に入学をして、マーケティングを学んで。
実地で生かすために会社員で実戦を積みました。
大竹
会社員の頃はどんなことをしてたの?
濱口
とある海外のECベンチャー企業に入ってマーケティングの仕事をしたり、
その後は広告代理店に入って、ブロックチェーンの仕組みに興味を持ったり、ですね。
大竹
ブロックチェーン?
濱口
はい。
ダンスとか、民族舞踊とか、そう入ったものをどう保管するのかに、ブロックチェーンの仕組みが適しているのなーと。
またコミュニティ経済を作る上でも使えるな、とか。
興味のあるものはかたっぱしから勉強していきました。
大竹
へー、ブロックチェーンってそういうことにも使えるんだ。そこから1年で独立。
濱口
はい。今の事業であるクライアントの集客支援やマーケティング支援を行っています。
大竹
本当に変化のある人生だね。
濱口
ですね。
ただ、世の中も変わり続けています。
新しいことがどんどん出てくるし、前提がどんどん変わっていく。
その中で情報収集して分析し、いかに効果的に価値を届けていくのかを考えることが大事になってきた。
その点ではダンスもマーケティングも通ずるところがあるのかなと感じています。
大竹
好奇心の向きは変わってるけど、
本質的な部分は変わってないよね。
濱口
そうですね。
大竹
最後に、今の仕事で大事にしていきたいこと
こんなことやっていきたいということはあるかな?
濱口
そうですね。
会社つくったんで会社を大きくしたい、けど大きくしすぎない。
ということは大事にしたいですね。
コミュニティとして充実していれば、
むやみに会社を大きくする必要はない。
昔はアートで世界を救うとか思ってたけど、
逆に自分はそれがエゴに思えてきたんです。
全員がアーティストになれば世界は幸せになると思っていた。
でもそうじゃないなと。
大竹
それを望まない人もいる。
濱口
そうです。
自分の届く手の範囲を見極めて、その中を幸せにしていくことが大事。
だからクライアントと、その先のお客さんを幸せにする。
それを忘れずに人生を生きていきたいと思います。
大竹
ありがとうございました。
【NADJA公式サイト】
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